archive : 2011 年 08 月

カエルin香港

わしは今香港にいる。
数年ぶりの香港であるが、香港人のエネルギッシュぶりは健在だ。
新しく開発された高層タワーがあり、渋谷や青山にも劣らないファッショナブルな商業施設もある。
若い女の子たちもかわいい~。この世代の若者は、日本中国韓国ともう差がない。着ているものも、
文化的な享楽も・・・。これもグローバル化ということか。マナーも良くなった。
彼ら彼女らのの見かけ上の差はなく、話している言語だけが違っている。

ここまで、価値観が共有できているのならば、日本中国(香港だけかも)韓国間での戦争はあり得ないのではないだろうか?この世代に限るけど。

単純すぎるかな。

タクシーの初乗りは180円と安いが、最近はサーチャージがプラス20円ほどつくようになった。
それでも安い。九龍と香港島を結ぶフェリーは平日20円である。

交通費は比較的安いのだが、食費と衣料品が高くなって、へたすると渋谷青山よりも高い。
ということは地代が上がっているということだな。土地バブルの傾向なのだろう。
家族経営の昔ながらの店は安いのだが、こじゃれた商業施設にある今風の飯は高い。思わず、「たっか~」
と言ってしまう。

地震を経験したことがない香港人だからか、しごく当然に明日を信じている。明日は必ず来るものなのだ。
明日もご飯を食べる。明後日もご飯を食べる。よくものを食う。この生活がずっと続く、と、信じている。
その楽観さ加減は、3.11を経験した日本人に見られなくなった気質だ。


縦位置の写真を縦にできなかった香港の猫である↓。頭を左に傾けて見るように。

香港の猫

昨日の天気予報は気温33度、湿度80パーセント、「酷暑」という予報だった。「酷暑」ってどんな暑さ?
と思っていたが、8月半ばの東京よりはましだったかな。湿度が高くて汗をかく割に、建物に入ると15℃の
冷蔵庫の中のようで、真夏と真冬を一日に何度も行ったり来たりしているようで疲れる。

そうしてるうちに日本の首相が変わったというニュースを聞いた。優男の前原ではなく、意外にも野田元蔵相が民主党党首になり、したがって首相になった。わしとしては個人的には好もしい顔である。
わしはゲンコツのような顔をした男が好きなのだ。

わしはどうも最近の優男顔が好きになれんでのう。だから韓国ドラマも見てはいないのだが、前原が首相になったらTVで見たくないのう、と思っていたのでそれだけでも助かった。

野田首相。そのジャガイモのような顔に期待してまっせ。管路線をことごく修正してくれなはれ。
香港から祈ってまっせ~。松下政経塾第1期生の名折れにならんようににゃ~。
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朝鮮王朝儀軌に見る外交感覚

2011年8月19日、NHKで「朝鮮王朝儀軌」にまつわる特集をやっていた。

朝鮮王朝儀軌

1922年に朝鮮総督府を通じて皇室に寄贈された「朝鮮王朝儀軌」その他167冊は写本である。元本は韓国で紛失したそうだ。
この写本が日本にやって来た所以を知らなかったので、番組を興味深く見た。
朝鮮を統治し始めていた矢先の1919年、李朝王高宗が崩御。日本とはいろいろとあったが、晩年には伊藤博文を深く信頼していたと言う研究もある人物だ(詳しくは「伊藤博文」瀧井一博著 中公新書)。
その高宗の国葬を神道式で挙行したのが、「三・一独立運動」にさらに火に油を注ぐ結果になって反日運動が激化。それに懲りて、李朝の儀式の研究をすることになり、「朝鮮王朝儀軌」のお取り寄せ、という事になった、というのが事の顛末らしい。
その研究のおかげで、高宗の息子で最後の李朝王純宗が崩御した1926年、日本側は空前絶後の規模で、李朝式の国葬を執り行った。

朝鮮を統治しはじめてわずか16年目、伊藤博文が暗殺されて17年目という時でも、円滑な統治に心を砕いた日本側の苦労が忍ばれる。

で、この朝鮮資料を返還する協定である「日韓図書協定」がこの6月に発行した。つまり、「朝鮮王朝儀軌」の元本をなくした国に、写本をお返しする事になったのだ。韓国ではすぐにでも返還されると盛り上がっていたようだが、まだ実行はされていないらしい。

ま、それはいいとして、この返還協定に行き着くまでの民主党政権の動き方が非常に情けない。
いや、「情けない」じゃなくて、「情けがありすぎる」

一言で言えば、「情緒」で政治をしているのだ。
1965年の「日韓基本条約」により、日韓双方の請求権を破棄、そのかわり5億ドルを日本が提供する経済支援方式で決着し、個人レベルの被害補償の請求権もなくなった。したがって、法的には日本には朝鮮の図書資料や美術品など返還する謂れはない。

だから情緒で決めたのだ、民主党政権は。これが許されるならば、朝鮮総督府に保管されていた日本側の資料その他を返還してもらう事も出来るのではないか?少なくともそういう交渉をする事は出来るのでは?

政治というのは冷徹でなければならない、現実を見据えた上で、非常な決断もしなければならない、とはわしの考えである。マキアヴェッリもそう言うとったけな。

さらに情けない事に、この返還運動に貢献したとして韓国側から表彰された国会議員がおったとさ。
共産党の笠井亮、社民党の服部良一、民主党の石毛えい子副代表などだ。よかったね、ほめられて。

彼らはほめられたけど、きっと今後も日本は責められ続け、何の感謝もなく、「植民地時代に奪われた我らが財産を返還しろ」と言い続けられるんだろうな。そして、歴史はねじ曲げられて伝わって行くんだろうな。

ちなみに、日本に朝鮮の資料が渡る半世紀も前の「丙寅洋擾事件」の時にフランス海軍が王室文庫から直接「李朝儀軌」300冊を持ち出している。もちろん、フランスは返還に応じていない。
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電力供給とは天秤に担いだ水の如し

菅直人が「俺をやめさせたければ成立させなきゃ嫌だ!」と小学生みたいな台詞をはいた
「再生可能エネルギー法案」
が今月中にも、ほんとに成立されそうだ。
まだ法案なので、詳細が不明なのだが、趣旨としては、再生可能エネルギー(太陽光発電など)で発生した電力を、電力会社に強制的に高価格で買い取らせ、そもそもコストが高くて経済性の悪いシステムを
「環境思想」から、なんとか社会的な設備として実現させようというのが狙いだ。
「環境思想」での最悪の鬼っ子である「原発」から脱するためだ。

しかし、最初のブログで指摘したように、太陽光パネルの場合は古典的エネルギー供給源がなければ。その太陽光パネル自体を作る事が出来ない。

で、件の「再生可能エネルギー法」というものが出て来る。
この法案では、再エネで発電された電力をなるべく高い料金で買い取らせる事が眼目になる。例えばキロワットあたり40円で買い取るという事にしよう。

試案では、経済産業大臣が決める、という事になっているから、新事業者のロビー活動や、孫なにがし本人か、その息のかかった者がその地位に就けば、好き放題に買い取り料金が決められるという事には注意しなければならない。

そのコストは電力会社が払うのではなく、最終的には消費者が払う。国から補助金をもらい、なおかつ国民全員が電気税を払うようなものだ。
つまりこの法案は、ノーリスク・ハイリターンの絶対失敗しない事業保護法なのだ。どんなに出力の悪いプラントを作っても、かならず元が取れる仕組みを作ろうとしている。

だが、日本製のソーラーパネルを使って発電プラントを作れば、日本の企業も潤い、雇用も増えるかもしれない、という期待もあるだろう。ではもし、中国製や韓国製のもっと安い太陽光パネルを使えば、コストが大幅に下がるので40円の買い取り価格のうち、利益幅がさらに増える事になる、とは誰でも考える事だろう。
そば粉100%でうったソバを800円で売るよりも、小麦粉を足してそば粉率50%にすれば利幅が増えるのと同じ道理である。

つまり、税金からも国民の電気料金からも集めたお金が外国企業にわたってしまう事になる。電気代は安くならないし、産業で使える筋のいい電力ではないから、日本の産業界は自滅する。という図式が見えて来る。

こういう構図が透けて見えるのに、誰も彼もが「再生可能エネルギー法」の成立を望んでいるような雰囲気がどうにも気に入らない。
第二次世界大戦中に金融の素人である日本陸軍が、大陸で勝手に朝鮮銀行を利用して通貨を発行し、結局中国人に正貨を利鞘や稼ぎで巻き上げられたようなもので、日本人は戦争すればするほど、貧乏になって行った構図と相似形である。

この再生エネルギー法案で日本人は貧乏になって行くだろう。ではどうしたらいいか。
それは買い取り価格を決して高くしては行けないという事だ。
そもそも孫なんとかは、「電力の自由化」をうたっているのだ。ならば、買い取り価格も競争原理が入る価格に押さえなければならない。真っ当に勝負しろという事だ。人が作ったものを右から左に売りさばいているようなわけには行かないという事だ。

これは川崎の浮島に8月10日に運用開始した東京電力と川崎市の共同事業のメガソーラープラント
浮島のメガソーラー

年末に完成するお隣の扇島の太陽光プラントと合わせれば2万kwとなる国内最大規模の発電プラントだ。5900世帯の年間使用電力をまかなえるそうだ。
この比喩でも分かる通り、太陽光プラントや風力発電というのは、所詮、家庭用の電力源なのだ。せいぜいが、オフィス用。
それでいいじゃないか、その分、工場にまわせる電力が増えるじゃないか、という向きもおられるだろう。
ところが、そうではない、出力が大きくて、しかも不安定な電力が系統連携、つまり送電線に送電するという事は、非常なリスクが伴うのだ。それは、大規模停電

「環境思想家」である人々の目指すところはそもそも電力安定供給ではない、彼らの狙いは「原発廃止」。
それはもう、「打倒資本主義」の闘争に敗れた連中が見いだした真新しい正義の標語なのだ。そこには彼らの頭だけにある理想郷を目指す事にしか興味がない。

放射能がなくて、クジラがたくさん泳いでいて、イルカと仲良しになって、そんでもって、世界が平和でありますように、と言って、「風の谷のナウシカ」のような素朴な世界・・・。

話を戻すと、この大規模なメガソーラー・システムを実用運転して現れた問題が以下のグラフだ。これは東京電力のサイトに掲示してある、稼働2日目の出力データだ。
浮島メガソーラー・プラント


一日の発電量グラフ

このグラフの何が問題になったのか。それは14時のところで出力が落ちているところだ。その時曇ったらしい。
これが、家庭用のソーラーパネルなら何の問題もない。発電モニターを見ていない限り気付かない程度の出力の落ち込みだろう。
だが、これが系統連携して送電線で送られ、産業分野に供給されているとしたら大変な問題になる。

電気というものは発生したら、ためておく訳にはいかない。消費される電力分が100としたら、同じ100の出力で送電しなければならない。それをもし110で送電すると、10の分は余って無駄になってしまう。逆に10足りないと当然停電という事になるのだが、ここが不思議なところで、10余っても、10足りなくても実は停電してしまうのだ。
それは送電網を守るためにそういうシステムになっている。

つまり、ちょうどいいバランスで釣り合うように送電しなければならない。100の消費量があるのなら100の送電をしなければならない。日本の電力会社はその神業のようなバランスをとりつつ、毎年夏の猛暑の時も、正月の電力使用量が極端に減る時も、送電システムが破綻しないようにしているのだ。このありがたさはダメージを受けてみないと理解できないかもしれないが、電車が規則正しく運行されている時のありがたさは理解できるであろう。それがもっと大規模に、繊細にコントロールされているという事であると言えば想像できるであろうか。

この不安定さをカバーするために、スマートグリッドと言う技術が必要とされ、広範囲に多拠点に建設された太陽光発電プラントとの連携が必要になって来る(だから梅雨時はとっても不利)。
その、多くの発電プラントからの送電で、「平均化」された出力グラフというのが下のグラフだ。

系統連携グラフ

つまり、各太陽光発電所が頑張って高出力を得たとしても、どこかで曇ったりすれば、その落ち込んだ発電所の電力に合わせて平均化された電力しか送電網には乗らないという事だ。
なんか、高額の契約料を払った割には打てないバッターみたいな感じ?

わしは太陽光発電を憎んでこう言っているのではなく、太陽光発電の使い方が間違っていると言いたいのだ。
ドイツで再生可能エネルギーで成功している自治体は村単位、町単位で地産地消してる例が多い。ヨーロッパはもともと、セントラルヒーティングの思想があり、町に必要な熱源を一カ所で作って各戸に配るという習慣も文化もある。だから、太陽光発電だけではなく、熱源としてバイオエネルギープラント(メタンガスの熱源と発電)あるいは風車など、トータルで町のエネルギーをまかなおうとしている。その姿は正しい。
それは家庭消費用だからだ。何度も言うが、産業用としてはその程度の規模では使える電力は生み出さない。
どうしても、太陽光発電で高出力を得たければ、宇宙空間に発電プラントを建設するしかない。

わしが望むのは再生可能エネルギーの範疇に入るかどうか分からないが、マグネシウム循環発電であり、メタンハイドレートの利用であり、さらにわしの生涯をかけても(カエルの人生は15年か)実現できないであろう核融合エネルギーである。その実現のためにはとりあえず「原発」が必要だ。化石エネルギーが枯渇する40年後までには、原発を主力にして乗り切らなければならないと思っている。どうせ投資するなら、そちらの新エネルギーの方向に資本を投資して欲しいものである。
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マスコミの正義感

2011年8月12日 NHKで「追跡 AtoZ」というルポルタージュ番組を見た。タイトルは「原発作業員が消えた」
サブタイトルは「福島第1原発で何が?闇社会の手配師が暗躍」というやつだ。

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なんかタイトル見ただけで内容が分かってしまう、予定調和されたルポルタージュだった。
なぜ、この番組に興味を持ったかと言うと、実はわしは福島原発に作業員として行きたくて、あちこち情報を探していたにもかかわらず、ついにその伝を見つけられなかったからだ。

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なぜ福島原発に行きたいのか?もちろん、この事故の収束のために、3.11以来作業されている方々のお役に少しでも立ちたかったからだ。津波被災地には大勢のボランティアの方々がやって来られているだろう。しかし、わしは福島原発で働きたかった。その様子をルポルタージュしたいと言う色気がなかった訳ではない。一発、体験記でもまとめて当ててやろうか、と思わなくもない。だが、それは二儀的なもので、第1の動機は国益である。
この福島第1原発が収束しない限り、日本の原子力発電事業の将来はないからだ。もちろん、わしに専門的資格がある訳ではない。だが、この猛暑の中、お盆も顧みずに収束に向けて作業されている方の100分の1でもいいから、何かお役に立てたらと、ずっと思って来たのだ。

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しかし、番組のタイトルを見て分かる通り、この番組プロデューサーが言わんとしている事は、わしとは違う観点だった。このプロデューサーが何を言いたかったのか。案の定と言うか、原発に関連してうごめく裏の世界、暗黒面を白日の下に晒そうとしていた、という事だけは分かった。

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彼らは、大阪愛隣地区などからかき集められた作業員が、危険な放射線量のエリアの作業をさせられて、使い捨てにさせられている、その作業員を取りまとめているのは6次、7次下請けの暴力団関係者だ、と弾劾しているのだ。

わしはここに、彼らマスコミの正義のあり方に疑問を感じる。一見、彼らが弾劾している事は社会的問題を提起し、東電の責任を追及しているように見える・・・が、素直に頓首できないうさんくささを感じるのだ。

暴力団関係者が日雇いを募集しているという事は確かに問題だ。これは根絶しなければならない、これには完全に同意する。が、その事を東電へ責任追及しているは筋が違うのではないか?
まるでありもしない従軍慰安婦が、組織的になされていたと言う話と似ている。あれは女衒の話で、娼婦が軍について行った事にしかすぎないのに、軍部の組織的な活動の一部だったといい募る事と同じ思考回路だ。

作業員を使い捨てにしていると言うが、一人当たりの被曝量を少なく保つには、一人物の作業時間を少なくするしか方法はなく、そうすれば、大勢の作業員に割り振らなければならないのは当然の帰結で、「使い捨て」という言い方は当てはまらないと思う。このわしが、その一員となって作業したいと今でも望んでいるのであるから、わしの自由意志で行く分には文句はないはずである。ならば、福島原発で危険な作業である事を説明した上で募集に応じたのならば何の問題点もないのでは?
たとえその作業員が借金で苦しんでいるという事情があるとはいえ、その事と東電は関係ないはずだ。

もちろん、途中の斡旋でピンハネはあるだろう(娼婦と一緒だな)。それは経済活動の一部であって、とやかく謂れる筋ではないのでは?
数日間作業して、その後の所在が分からないというのが問題だとも言う。それはその人のプライベートも絡んでくる問題で、借金取りから逃げているのであれば、表に出たくないという心理は当然なのでは?

つまり、何でもかんでも東電の責任追及という傾斜を持つマスコミの姿勢をわしは問題にしたいのだ。これが週刊現代とか東スポとかなら、その線で話題を作るだろうな、と思うが、天下のNHKがこの程度の報道しか出来なくなったのか?と、残念に思う気持ちが大きいのだ。

最近のマスコミの正義を振り回す事の薄っぺらさといったら、暗澹たる思いだ。
最近見なくなった原子力安全保安員 西山審議官の不倫報道もそうだ。人のセックスを追いかけ回すのがジャーナリストの正義なのか、この記事を追求したのが「週刊新潮」と聞いて、これもがっくりきた事の一つだ。フライデーじゃないんだ〜。m(’u’u’)m

漱石の「草枕」に

「5年も10年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁に勘定をして・・・お前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと、頼みもせぬ事を教える」

というのがあるが、それと変わらない。戦前、新聞屋が軍部の尻馬に乗ってさんざん戦争への熱を煽り続けていた構造だ。あれから70年80年経っているのに変わりもしない。「ロッキード事件」の時も、「三浦和義事件」の時も悪者を仕立て、それをテレビのワイドショーで正義漢面して追求する、あの熱狂ぶりと言ったら。いったい何様なのだ。
そいでもって、最近は田中角栄のような政治家が懐かしいというような言及もしたりする。アンポアンポと叫び続けて、日米安保条約が自動継続されると、とたんに、さあ次は就職だ、と、ころっと体制側に安定を求める(そう出来ずに未だに活動しているおっちゃんもいてるけどな)。そういう世代が報道局長になってたりするんだよなあ。

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原爆と原発

8月9日、長崎原爆慰霊祭で菅直人は案の定「原発に依存しない社会の実現云々‥‥」とスピーチをした。
先日のブログにも書いたが、わしは原発と兵器である原爆が同列に扱われ、まるで同じものでもあるかのような言説を耳にするたびに忌々しさというよりも、怒りさえ覚える。
なぜそう思ってしまうのか考察してみたい。

長崎原爆記念式典

広島・長崎の原爆慰霊祭とは、先の戦争で投下された原爆で亡くなった方々の御霊を慰霊するものである。米国による一般市民への大量殺戮兵器使用の是非はここでは述べないが、あの日から66年を経た今年は米政府代表が出席するなど、時代の変化を感じるものがあった。

朝鮮人原爆犠牲者を追悼するために韓国からも高校生が参列したと言う、それはいいとして、「ちょっと待て」と言いたくなるのは福島のいわき市立中学生の出席だ。
同じ被曝被害者だからだという事かららしいが、ここでも、原爆=原発の図式がある。
放射線被害の事を学ぶのになぜ長崎の慰霊祭に出席する必要があるのだ? もちろん、長崎に来るなとは言わない。だが、この事の裏に企画をした人間の思考が読み取れる。
原発とは人間が制御できない危険なものであり、核燃料を扱っている以上廃絶すべきだ、というメッセージをこの中学生達に植え付けている。
この中学生達は、ごく自然に原発=原爆という思考を持つだろう。何の疑問も持たずに。

戦争をなくすには平和憲法が必要で、軍隊は悪だ。軍隊は廃止すべきだ。という論理と一緒で、原発を悪と決めつける。原発と原爆がどのように違うかというと、原材料が同じという以外全て違うものだと言う事も分からずにだ。

例えば、黒色火薬を使う兵器と花火の違いは?大陸間弾道弾と宇宙探査ロケットの違いは?航空機と戦略爆撃機の違いは?
これらの違いには誰でも簡単に答えられるだろう。それなのになぜこんなにも違う原発と原爆をいっしょくたにするのか理解できない。しかも、東工大で原子物理学を学んだ、「俺は原発には詳しいんだ」と啖呵をきった菅直人がである。同レベルで原発廃止などとのたまわる。今年始めにはベトナムに原発のセールスに行って好感触を得ていたにもかかわらずだ。

3.11以降、福島第1原発の事故で東電と原発技術力を誇っていたメーカーは信用を失墜した。しかしである、それにもかかわらずベトナムもトルコも日本の技術による原発が欲しいとラブコールしてくれている。
彼らの目にはこの震災に耐えた原発の方が目に映っているのである。
これほどの地震と津波にもかかわらず、福島第1原発以外は全て安全に停止している。他の国で、このような対応が出来る原発があるだろうか?
だからこそ、ベトナムとトルコは日本からの入札参加をあきらめきれないのだ。この円高にもかかわらず。その思いに答えようとは思わないのか。

今回の震災レベルを乗り越えられる技術力が日本にはある、世界一安全な原発を作る能力もマネジメントも打ち立てる事が出来る、とそう断言してこそ日本の政治家なのではないか。

ここで原発と原爆の違いに付いて簡単に説明しよう。ごくごく簡単に言えば、原爆は核燃料を一気に反応させることで発生する熱エネルギーでものを破壊する兵器。原発は核反応をゆっくり起こして、ゆるゆると燃やして熱エネルギーを回転エネルギーに変換して電力を得る仕掛け。
原爆のように、一気に反応させる核反応のためには、核燃料となるウラン235を濃縮して純度を上げなければならない。兵器級と言われるウラン235の純度はほぼ100%だ。それに対して原発で使用するウラン235の純度は4%くらいでいい。
原料であるウラン235だけをとってもこの違いである。

北朝鮮で問題になっているウラン濃縮工場というのが、この原発級の濃縮なのか、兵器級の濃縮施設なのか、という事が検証できなくて問題になっているのだ。

いちいち説明しないと分からんのか、という苛立ちと、原発と原爆は技術的にはこれこれこのように違う技術なのですよ、と諄々と説明しても、同じように危険視する輩は聞く耳を持っていないのだ。それがわしを苛立たせる。
AKBの誰かがTシャツに「Little Boy」と書いてあった、とクレームを入れた人間達、これなども、「我々の悲しみが分からないのか」とでも言いたいのか。何の意味もない言葉狩りではないのか。これからは「デブ」というのを英語では言えないな。おっと、差別用語か。



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悪役とヒーロー

最近とみに注目されているユーチューブ動画と言えば、7月27日の衆院厚生労働省委員会での児玉龍彦教授の発言だ。
放射線医学の専門家であり、現場を知る者の説得力ゆえに、ということだろう。知らない人のために以下に動画サイトをおく。

児玉龍彦教授動画

これは静止画
児玉龍彦教授









この時期に何故に児玉教授の人気が上がったのだろうか。まるでヒーローのように。確かに、教授の福島での除染活動には頭が下がる。生半可な思いで出来る活動ではない。

3.11以来、マスコミでは数限りなく専門家があらわれ、いろんな事を言っていた。中には「ホンマかいな』と生活の実感として納得できない話があったり、「ナルホドー」と納得してしまう解説もあった。その差はいったいなんであったのか。信じられる知見というは何であるのか、視聴者にも勉強が求められる事態となった。

前者の「ホンマかいな」ネタで有名なのは、この児玉教授発言でも言及があった大橋弘忠東大教授の発言である。

大橋教授の発言要旨は「プルトニウムの毒性は誇張され過ぎている。(中略)仮にプルトニウムが水源地に(テロリストにより)投げ込まれたとしても、プルトニウムは水に溶けないし、仮に人体に入ったとしても排出されるので問題はない」という、とにかく原発は安全なのよ発言に対し、
いや、放射線はほんの少量でも人体に影響がある、とにかく原発は超危険なのだ。原発は人間が管理できるものではないのだ、という反原発急先鋒の小出裕章京大教授(ラドン温泉には入るなという事か)。どちらも、原子力発電の専門家だ。同じ専門家がどうして両極端の意見になるのか、物理学とはこの宇宙に共通した普遍の法則を探究する学問であるはずで、ならば同じ結論が出てしかるべきなのではないのか?
わしにしてみれば、この二人の言ってる事はどちらも真なのである(極端すぎるが)。説明は後日。

この両極端のキャラクター二人とは、違う立ち位置に児玉教授が現れた。不毛な右翼と左翼のののしり合いのようなステージから別の視点を与えられたようなものかもしれない。

児玉教授は何を言わんとしていたのか。
彼は、反原発とは一言も言っていない。彼は、福島で実際に除染活動をし、その際の政府の不手際、理解のなさ、法律の不整備に対して怒りを表明しているのだ。実践的な方策も提言している。つまり、

放射線汚染による被害を、日本の科学技術を総動員して乗り越えようと呼びかけているのだ。

と私は受け止めている。
そのためには現場を熟知した専門家、その専門家の言わんとしている事を理解できる行政側(政府や役人)、そして正確な情報を分かりやすく広報できるスポークスマン(マスコミが担ってもいい)が必要だ。その三者がいなければ迅速な救済対応が出来ないのだ。そして膨大な金がかかりますよと。
(原発事故初期に、東電には優秀なスポークスマンがいなかった事がさらに不信感を増幅した)

人々は放射線汚染による不安感のため、東電をとにかく悪者に仕立てようとする。政府は批判されてしかるべきだが、原発利権屋として原発擁護派や東電擁護派を叩く。叩けば何か解決する訳ではないはずだが、気は晴れるかもしれない・・・。
あげく、「電気と命のどっちが大切なの!」と問詰められる。
なんか、「戦争と平和とどっちが大切なの!」と言われてるみたいだ。「そりゃ、平和に決まってまんがな・・・」。

安心したいがために「何ミリシーベルなら大丈夫なの?何ベクレルなら食べてもいいの?」と、とかくシーベルト単位で目安を求めようとする。その不安感も分からないではない。
東京在住のカエルが何を偉そうに、と思われるかもしれないが、わしは長崎生まれの被曝2世でもあり、放射線による被害に関しては一言申し上げてもよいのではないかと思う。

長崎の原爆はプルトニウム型でTNT22キロトンの破壊力があった。地上500mで爆縮核爆発。直接の死者7万人以上。その後の放射線被曝や熱線による死者がさらに7万人。戦後も放射線被害で大勢の人が苦しんでおられる。
しかし、長崎は(広島も)死の町とはならなかった。
あの当時、原爆という言葉を知るものはいなかっただろう。放射線による人体への影響を考えて生活できる者も皆無であったろう。
そういう威力を起こしたプルトニウムの量というのはどのくらいだったかと言うと、たったの6kg。大きさにすると」野球のボールくらいか。その全てのプルトニウムの原子核が反応して核爆発した訳ではないのでいくらかの残存放射線核種が残ったであろう。
かりにプルトニウム核種が飛散されたとして、それらはどこに行ったのであろう。
結論から言うと全世界に拡散したと思う。
核爆発後、一体どれほどの放射線量を日々浴びていたのか、資料は残っていない。米軍が持っていたかもしれないが、公になったデータをわしは知らない。
で、何を言いたいかというと、それほどの放射線量を浴びながら、亡くなった人もいるけど、生き延びている人もいるという事実だ(第五福竜丸の事件でも生存者が健在)。放射線障害でなくなった人々だけを見ていけば、小出教授の言うように核は「悪」に映るだろう。生き延びて、今でも元気に生活人だけをみれば大橋教授のような楽観論になるかもしれない。
つまり、人は自分の都合のいい物しか見ないという事だ。

わしが忌々しく思うのは兵器である原爆と、原子力発電を同列に論じる輩だ(代表は大江健三郎)。だって、同じ放射線じゃん、核物質じゃん、と思うかもしれないが、そうではない。説明は後日(面倒だから忘れる可能性有り)。
この程度の認識の先には「暴力装置でもある自衛隊」(仙石由人談)という発想が生まれる。
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